![]() 備前焼は鎌倉時代には、備前の国、伊部(いんべ)の西にある、熊山周辺で作られていまし たが、これが徐々に伊部や南伊部にうつっていき、約600年前の応永年間には、現在も陶 芸のメッカといわれる「伊部の里」の原型となる大集落が出来ました。
その後、桃山時代になると豊臣秀吉や利休、織部などの茶人に愛用され茶陶として全国的に
名声を高めます。
利休は備前焼の花入壷などを数十回も使用しています。
この時代、備前焼はひとつの頂点を極めたといって良いでしょう。
江戸時代になると、備前藩主池田氏は、備前焼を特産物として保護し、窯元六姓には「御細
工人」という肩書きを与えました。
窯元六姓というのは、「木村・森・金重・大饗・頓宮・寺見」の六家で、現在もその子孫は
窯元や作家として活躍しています。
江戸時代の後期になると、藩の保護は次第に薄れて備前焼は少しずつ寂れていきます。
次に繁栄を迎えるのは、戦後世の中が落ち着き経済復興が始めるようになってからで、この
頃から活気を取り戻し現在に至っています。
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